えーとね、ちょっと日々思うことで、歴史についてなんですけど。
皆さんね、まあ歴史がああだこうだという感じでよく言われるんですけど、正直なところ、ほとんどの方……いや、私も含めてですけど、私たちは一体、歴史の「何」を知ってるんでしょうかね。
「誰かの解釈」を食べて生きていないか
文献にはこう書いてある、とか。あの人がこう言っていた、とか。
そういう情報を、皆さん一生懸命に自分の中に入れますよね。でも、それが正しいか正しくないか以前に、そこには「人の解釈」がものすごく入り込んでるんじゃないかな、っていうのが私の認識なんです。
情報を入れること自体は否定しませんし、参考にするのはいいんですよ。でも、そこを聞いただけで「あれは正しい」「これは間違っている」なんて断定しちゃうのは、なんというか……見ている世界がものすごく狭い気がするんです。
誰が何を言った、誰が何をした。世の中には分かったような顔をして断定する人が多すぎます。いや、あなたはその人の何を知っているんですか? その出来事の、一体どこまでを見てきたんですか? と聞きたくなる。
評論家になっても、人生は1ミリも変わらない
最近に限らず、昔からそうなんですけど、この手の話に本当によく遭遇します。皆、立派な「評論家」なんですよね。
でもね、あえて聞きたいんですけど、その情報を聞いたからって、あなたの人生、何か変わるんですか?
武道だってDIYだってそうです。本に書いてある理屈をいくら並べたところで、自分の身体が動かなければ、あるいは目の前の材料が組み上がらなければ、それは「無い」のと同じなんですよ。
私は正直に言います。何が本当のことかなんて分かりません。
だから「分からない」と言っているだけなんです。
「分からない」と言える強さ
こういう話をすると、「お前は何も知らないのか」なんて扱いをされることもあります。でも、本当に歴史の正しさなんて、誰に分かるんでしょうか?
結局のところ、それぞれが自分の「立場」から、都合のいい解釈を話しているだけに過ぎないんじゃないか。
情報の渦に呑まれて、分かったような顔をして他人をジャッジする。そんな暇があるなら、自分の手で触れられる現実、自分の足で立てる感覚を磨いたほうがいい。
私はそう思います。
正解を探すんじゃなくて、分からないなりに「自分の事実」をどう作るか。結局、職人の生き方ってそこに行き着くんですよね。
