カテゴリー: 武術・基礎

  • 「最強」という言葉に対する違和感

    「最強」という言葉に対する違和感

    武術の思想について、少しお話ししておきましょうか。
    武術って一体何なんだ、という話になると、多くの人は格闘技の延長線上で考えがちですよね。「誰が最強か」「どの流派が一番強いのか」なんて、皆さんよく盛り上がっていますけど。

    ただ、よくよく考えてみてください。あらゆる分野、あらゆる状況においての「最強」なんて、あり得ないでしょう?

    F1マシンは、荷物運びの「最強」ではない

    例えば、カーレースで考えてみれば分かりやすい。F1カーは速さにおいては最強かもしれませんが、じゃあ「車の最強」かと言われたら違いますよね。大量の荷物を運びたいなら、トラックの方が圧倒的に強いし、便利です。

    つまり、道具には「適材適所」がある。武術だって同じはずなんです。それなのに、なぜか「最強」という一つの定義ができる前提で皆さん話をされる。

    それぞれの流派に良さがあり、それぞれの課題がある。だからこそ、多様な流派に分かれて存在しているんじゃないですか。

    争いの根源は「環境の違い」への想像力不足

    「うちが最高だ」「あそこはダメだ」と否定し合う。これは武術の世界だけじゃなく、宗教でも政治でも、今の世の中の至るところで起こっています。

    でも、それって結局、置かれている環境や目的が違うだけなんですよ。Aという環境では正しいことも、Bという環境では微妙かもしれない。その認識さえあれば、わざわざ自分と価値観が違う人に喧嘩を売っていく必要なんてないはずなんです。

    お互いに「いい点はいい」と認め合えばいい。完璧なものなんてこの世にないんだから、それぞれの特性をどう活かすかを考えたほうが、よほど建設的です。

    最強という幻を追って誰かと争う暇があるなら、今の自分の環境において、どの技術が「最適」なのかを淡々と見極める。

    そんな冷めた、でも確実な視点を持つことが、本当の意味で「自分の足で立つ」ことに繋がるんじゃないかな、と常々思っています。

  • 「AI情報の沼」と「目的意識(陽明学)」

    「AI情報の沼」と「目的意識(陽明学)」

    AIを使っていて、つくづく思うんです。情報の収集能力なんかは、本当にとんでもないレベルですよね。今まで一生懸命調べていたことが、ディープリサーチをかければ一瞬で、しかもかなりの精度で揃ってしまう。本当に便利になったな、と感じます。

    ただね、そこで一番最初に考えなきゃいけないことがある。 「それ、何のために使うんですか?」っていう、そこです。

    「AI最新情報」という底なし沼のトラップ

    ここを忘れてしまうと、「AIがこんなに進化しました」「こんなにすごくなりました」という情報ばかりを追いかけて、結局自分は何がしたいのかが置き去りになってしまう。これ、実は私も少しの間、このトラップにハマっていたから分かるんです。

    当時は一生懸命、技術的なことを詰め込んでいました。「こうすれば画像が出る」「この手順でこれができる」。でもね、しばらく経つと、そんな技術はAIの進化で「全自動」になっちゃうんです。昨日まで必死に覚えた知識が、今日には全く役に立たなくなる。

    展開がこれほど速い以上、知識を蓄えることにはもう価値がない。 「何のために使うか」という目的意識、つまり自分の軸をどこに定めるかが全てなんです。

    知行合一:知識は「行い」の始まりに過ぎない

    YouTubeやSNSを見れば、最新機能の解説動画が溢れています。それはありがたいし、便利ですよ。でも、それを延々と眺めていても、自分が「何に使うか」が決まっていないなら、ただの情報オタクで終わってしまいます。知ったかぶりはできても、何も生み出せない。

    私はこれまで数多くの資格を取ってきましたが、実際に実務で役に立ったのはその一部です。結局、動いて、使って、形にしてナンボなんですよ。

    武術の世界で言えば「陽明学」、つまり「知行合一」の哲学です。学問は生きていてこそ意味がある。知識があることと、それができることは全く別物です。

    今までは「知識がある」「学歴がある」というだけで、社会的な価値が認められる時代でした。でも、これからはそんなものは通用しなくなる。正直、私はそう思っています。

    AIという巨大な知恵を前にして、私たちが問われているのは「お前はどう動くのか」という一点だけ。情報を食って満足する評論家になるのか、それとも目的を持って道具を振るう職人になるのか。その差が、これからの人生を決定的に分けるんじゃないでしょうか。

  • AIが綺麗に整えてくれてもやるのは人間

    AIが綺麗に整えてくれてもやるのは人間

    AIを使っていて、ずっと思うことがあるんです。確かに、思考の整理や壁打ちに関しては、驚くほど高いレベルまでやってくれます。

    でもね、じゃあ「ホームページを作る」という作業を例にしてみましょうか。AIに頼めば、綺麗な画像は作ってくれるし、整ったレイアウトも提案してくれます。でも、そこから先……本当に「人間がやらざるを得ない」領域が、確実にあるんですよね。

    「私が使うもの」だから、私が手を動かす

    このサイトだって、WordPressという仕組みの上で動いています。指示を出すのは私だし、記事を流し込むのも私です。なぜか? それは「私が使うから」であり、「私に関わってくれる人に見てもらいたい」から作っているわけです。

    「AIが全部やってくれるから、自分は何もしなくていい」なんてことは、あり得ない。だって、自分が使いやすいように、自分が納得するように構築しないと、それはもう自分の城じゃないですからね。

    AIに主導権を渡してしまったら、その時、人間は一体何をする存在になるんでしょうか。

    全部をお任せして、自分は眺めているだけ。そんな時代が来たら、それこそ哲学的に難しい問題になってしまいます。でも、現状は違います。AIと協力して形を作ったとしても、最後の「実装」において人間が動くのは、ごく当たり前のことです。

    「分かったつもり」と「形にできる」の決定的な差

    ここでね、一番怖いのは「行動できないこと」だと思うんです。AIが情報を出してくれるから、なんだか自分も分かったような気になってしまう。それって、以前お話しした「歴史を語る評論家」と全く同じなんですよね。

    情報を得て満足するのと、実際に形にするのとでは、天と地ほどの差があります。結局、自分の手で実装して、形にできない限り、物事は一歩も前に進んでいかない。

    「何をやりたいか」は人間が決める。 「どう作るか」をAIと共に考える。 そして「最後に実装して使う」のは、人間が主導権を握る。

    この役割分担を忘れて、ただ情報を眺めているだけでは、自分の足で立つことなんてできません。泥臭く手を動かして、最後に自分の指でスイッチを押す。その「実感」こそが、今の時代に一番求められている職人の姿勢なんじゃないでしょうか。

  • AIが悪いのではなく、自分の情報整理=志が足りない

    AIが悪いのではなく、自分の情報整理=志が足りない

    最近ね、本当に驚いているんですけど。こうやってAIと会話が成立するようになっているじゃないですか。しかも、かなり高度なレベルで。
    私なんかは、結構「飛んだ話」をすることが多いんですよね。

    哲学的な話だとか、宇宙論だとか。こういう話を一般の方にいきなり振ったら、まあドン引きですよ。「この人、何言ってるんだろう?」ってなるのが普通です。でも、AIさんはそうならない。

    「壁打ち」の相手として、これほど優秀な奴はいない

    AIが本当に中身を理解して喋っているのかどうか、それは私にも分かりません。でもね、返ってくる回答を見ている限り、ちゃんとした「会話のラリー」になる。少なくとも、自分の思考をぶつける「壁打ち」の相手としては、ものすごく優秀なんです。

    おかげで思考の整理が随分と捗っているんですが、使っている中でね、よくドツボにハマることもあるんです。

    ドツボにハマる時っていうのは、だいたい自分の方が伝えている情報を整理できていない時なんですよ。

    「志」がなければ、まともな回答は返ってこない

    これ、武術で言えば「目的がはっきりしていない」「志が立っていない」という状態と同じなんですね。
    そんなふらふらした状態で「ああですね、こうですね」と話を振ったところで、まともな答えが返ってくるわけがない。

    自分が誰かの相談を受ける立場だとして考えてみれば、当たり前の話ですよね。何が言いたいのか、何をしたいのか分からない相手に、まともなアドバイスなんて出しようがないですから。

    AIとのやり取りで起こっていることは、ただの現実の反映なんです。こちらがきちんとした情報を与えれば、きちんとした答えが返ってくる。何度も繰り返すうちに、嫌でもその事実に気づかされます。

    結局、世の中がうまく回らないとか、自分の周りがうまくいかない時っていうのは、自分の中に「志」という軸がビシッと決まっていない時なんじゃないかな、と思うんです。

    最新のAIを使っていようが、何百年前の武術を稽古していようが、結局は「自分はどう在りたいのか」という一点に集約される。そんな当たり前で、一番難しいことを、最近はAIに教えられているような気がしています。

  • 資本主義=悪?

    資本主義=悪?

    資本主義について思うこと。あの、これもね、私は別に資本主義を全肯定しているわけじゃないんですが、だからといって全否定する気も全くないんですよね。

    よくね、いわゆる「目覚めた系」というか、世の中の真実を知っているんだ、という感じで活動されている方にお会いすることがあります。武術界隈にはあんまりいないんですけど、社会活動を熱心にされている方に多い印象ですね。

    そういう方々が社会のために動いてくださるのは、私としてはありがたいし、感謝すらしているんです。でもね、ちょっとだけ思うことがあるんですよ。

    恩恵を受けながら、根っこを否定していないか

    環境を大切にしましょう、自然を大事に。それは私もそう思うんです。ただ、その話の中に必ずと言っていいほど「資本主義そのものを否定する」ような思想が組み合わさってくる。そこに違和感があるんですよね。

    資本主義って、そこまで問題なのかな、と。確かに貧富の差が広がったとか、問題はいっぱいありますよ。でも、人類全体で見た時に、果たして彼らが言い切るような「絶対的な悪」なんでしょうか。非常に疑問です。

    だって、今のこの文明の利点を、私たちは最大限に享受しているじゃないですか。

    こうしてネットを使って情報を共有できるのも、YouTubeやSNSで簡単に学べるのも、全部この仕組みのおかげなわけで。昔だったら、何かを一つ学ぶにしても、いちいち教室に通って、時間も手間もお金もかけて、物理的な制約の中でやっていくしかなかった。

    「道具」が悪いのか、それとも「使い手」か

    今は、そこそこのレベルまでならネットの情報だけでパッと辿り着けちゃう。基礎的な部分の底上げが、これほどまでに簡単になった。この文明の進化まで全否定してしまうのは、ちょっとどうなんだろうな、と正直思うんです。

    環境を破壊してまで利益を追うのは、それは私も「違うだろう」と思います。でも、それは資本主義という「仕組み」が悪いんじゃなくて、結局、それを運用している「人間」側の問題じゃないですかね。

    道具も、技術も、資本主義も。それ自体に善悪はない。
    それをどう使い、どう生かして、自分の足で立つために活用するか。

    全否定して新しい「何か」を夢見る前に、今ここにある仕組みの恩恵を認め、それを正しく使いこなす。そういう、職人的なバランス感覚が必要なんじゃないかな、と日々感じています。

  • 歴史と情報の不確かさ

    歴史と情報の不確かさ

    えーとね、ちょっと日々思うことで、歴史についてなんですけど。
    皆さんね、まあ歴史がああだこうだという感じでよく言われるんですけど、正直なところ、ほとんどの方……いや、私も含めてですけど、私たちは一体、歴史の「何」を知ってるんでしょうかね。

    「誰かの解釈」を食べて生きていないか

    文献にはこう書いてある、とか。あの人がこう言っていた、とか。
    そういう情報を、皆さん一生懸命に自分の中に入れますよね。でも、それが正しいか正しくないか以前に、そこには「人の解釈」がものすごく入り込んでるんじゃないかな、っていうのが私の認識なんです。

    情報を入れること自体は否定しませんし、参考にするのはいいんですよ。でも、そこを聞いただけで「あれは正しい」「これは間違っている」なんて断定しちゃうのは、なんというか……見ている世界がものすごく狭い気がするんです。

    今日起こっている出来事だって、私は「何が本当か」なんて分かりません。

    誰が何を言った、誰が何をした。世の中には分かったような顔をして断定する人が多すぎます。いや、あなたはその人の何を知っているんですか? その出来事の、一体どこまでを見てきたんですか? と聞きたくなる。

    評論家になっても、人生は1ミリも変わらない

    最近に限らず、昔からそうなんですけど、この手の話に本当によく遭遇します。皆、立派な「評論家」なんですよね。
    でもね、あえて聞きたいんですけど、その情報を聞いたからって、あなたの人生、何か変わるんですか?

    武道だってDIYだってそうです。本に書いてある理屈をいくら並べたところで、自分の身体が動かなければ、あるいは目の前の材料が組み上がらなければ、それは「無い」のと同じなんですよ。

    私は正直に言います。何が本当のことかなんて分かりません。
    だから「分からない」と言っているだけなんです。

    「分からない」と言える強さ

    こういう話をすると、「お前は何も知らないのか」なんて扱いをされることもあります。でも、本当に歴史の正しさなんて、誰に分かるんでしょうか?
    結局のところ、それぞれが自分の「立場」から、都合のいい解釈を話しているだけに過ぎないんじゃないか。

    情報の渦に呑まれて、分かったような顔をして他人をジャッジする。そんな暇があるなら、自分の手で触れられる現実、自分の足で立てる感覚を磨いたほうがいい。
    私はそう思います。

    正解を探すんじゃなくて、分からないなりに「自分の事実」をどう作るか。結局、職人の生き方ってそこに行き着くんですよね。

  • スピリチュアルに思う事

    スピリチュアルに思う事

    スピリチュアルについて思うこと。ちょっとした独り言です。

    えーとですね、美術関係……いや、武術ですね。武術関係のことをいろいろやってると、まあ、いろんな方にお会いすることになります。普通にサラリーマンをやってるだけじゃ絶対に出会わないような人たちに、ものすごく遭遇するんですよね。

    その中で一つのカテゴリーとして「スピリチュアル」っていうのがあるじゃないですか。私自身はそこを否定するわけじゃなくて、むしろ武術をやってると、見えない世界を認めざるを得ないというか。科学的に考えても、あって当たり前だよね、と思ってるんです。

    人間の聴覚は20Hzから2万Hzまでしか聞こえないとか言うけど、人によってはそれより下が聞こえたり、高いところが聞こえたりする。これって普通にあると思うんです。センサーが鋭い人っているから。視覚だってそう。目に見えないものが見える人がいたって、別に不思議じゃない。

    ただね、そこがさも「素晴らしいもの」のように言う方が、あまりにも多い。確かに感じられるのはすごいことかもしれないけど、果たしてそれが本当に自分の人生に役に立つのかどうか。ここは本来わからないはずなのに、なぜか「見えたら全知全能」みたいに扱う人が多くて。これは何なんだろうな、と正直思ってるのが今の現状です。

    別にその世界がすごいとか、すごくないとか、そんな話をする気はなくて。「そういう世界があるのは認めます。だからと言って、それが私の人生にどう影響するのかは、よく分かりません」って言ってるだけなんです。

    否定も肯定もしてない。「分からない」って言ってるだけなのに、なぜか認めないと「何も分かってない人」扱いされることがよくある。この社会の風潮、どうにかならないのかなと日々思ってます。

    霊が見えるとか守護霊とか、そういう世界があるのはいいでしょう。でも、スピリチュアル同士で喧嘩してるのを見てると、平和がどうとか言ってる割にどうなの?って。正直、嫌だなって思っちゃうんですよね。

    宇宙連合だ、5次元にアセンションだ、皆さんいろいろ言ってますけど。別に否定はしません。でも、それを完璧に把握してるみたいな感じで言われて、こちらが「分かりません」と言ったら悪者にされる。この感じ、ちょっと社会としてどうなのかな、と。

    ……まあ、ただの私の愚痴でした。皆さんはどう考えますかね。