投稿者: bsdiyai.com

  • 「組織が、世の中がおかしい」で、あなたはどうするの?

    「組織が、世の中がおかしい」で、あなたはどうするの?

    「なぜ自分の足で立つ必要があるのか」という、一番根っこの部分を伝えておこうと思います。

    サラリーマン時代も、そして組織を離れた今も、ずっと感じていることがあります。皆さん、コミュニティや組織のしがらみを無視しては生きられない。それは現実として分かります。でもね、あまりに自分を殺しすぎではないですか。

    「おかしい」と言いながら、加担する人々

    立派なことを言う人はたくさんいます。「これはやりたくない」「組織のここが間違っている」。でも、いざ行動となると、結局は組織の論理に従ってしまう。それどころか、無意識のうちに周りへ同調圧力をかける側に回っていたりする。

    私は、そういう全体主義的な空気が大嫌いなんです。心では反対しながら、行動では「おかしなこと」を助長する。そんな生き方が、果たして自由と言えるのでしょうか。

    自分の行動が伴っていないなら、どれだけ言葉を飾っても、それは自由ではないんです。

    期待はしない。けれど、やりたいからやる

    私が今、こうしてAIやDIY、武術を通じて「個の力」を磨く発信をしているのは、そういう生き方を選ぶ人が少しでも増えれば、世の中がもっと風通しの良いものになるんじゃないか、という淡い期待があるからです。

    もちろん、結果が出るかなんて分かりません。世の中が変わる保証もない。でも、私は「やりたいからやっている」だけなんです。

    もし何も変わらなければ、それはそれでしゃあない。一人で静かに日向ぼっこをして一日を終える……それもまた素敵な生き方だと思います。でも、もし少しでも希望があるなら、もう少し自由な世の中を見たい。

    誰かの顔色を伺って生きるのではなく、自分の頭で考え、自分の手で道具を作り、自分の足で大地を踏みしめる。

    そんな「職人」としての誇りを取り戻す人が増えた時、初めて本当の自由が見えてくるんじゃないか。私はそう信じて、これからも淡々と、自分の信じる道を歩んでいこうと思います。

  • 「避けて通れない、介護の重い課題」

    「避けて通れない、介護の重い課題」

    実際の具体的な活動として、今私が考えていること……それは「介護」という分野へのアプローチです。少子高齢化の日本において、これはもう避けて通れない問題ですよね。

    私の父親は、昔は何でも自分でやる人でした。とりあえず形にする、ということに関しては天才的だったんです。まあ、仕事が雑なので後で問題が出ることもありましたが(笑)、その都度直していけばいい、というスピード感があった。でも、そんな父も年齢と共に衰えていく。こればかりは「生老病死」、抗いようのない現実です。

    介護という「非生産的」な現場を、AIでハックする

    正直に言って、介護という分野は生産性が非常に低いです。どれだけ時間をかけても、明確な「出口」が見えにくい。だからこそ、こここそAIや技術の力を借りて、徹底的に効率化・システム化すべき場所だと私は思っています。

    幸い、私は電気や設備、ICTサポートといった分野で知識を蓄えてきました。この経験とAIを組み合わせれば、専門業者が作るような高価で無駄な機能がてんこ盛りのシステムなんて買わなくても、自分たちで最適な仕組みが作れるはずなんです。

    汎用品を組み合わせ、AIにコードを書かせれば、 「自分たちが本当に欲しい機能だけ」のシステムは、もう個人で作れる時代なんです。

    専門業者はいらない。必要なのは「構想力」だ

    今までなら、コンピューターを動かすのは難解なプログラミングが必要で、素人には手が出せませんでした。でも今は、AIに意図を伝えれば、動くレベルのコードを即座に吐き出してくれる。

    大事なのは「何を解決したいか」という構想力です。 高額なパッケージ商品をローンで買う必要はない。安価なセンサーとAI、そして自分の知恵があれば、それで十分なんです。

    これは介護に限った話ではありません。あらゆる分野で「専門業者任せ」にしていた部分を、自分の手に取り戻す。AIという最強の「助手」を使いこなして、身の回りの課題を淡々と解決していく。

    老いを受け入れながらも、知恵を使って生産性を上げていく。それが、私の考える「現代のサバイバル」の形であり、この研究所で証明していきたいことの一つなんです。

  • 「コスパの真実」と「身の丈に合った実装」のお話

    「コスパの真実」と「身の丈に合った実装」のお話

    具体的なDIYの話をしましょうか。私が仕事を通じて、そして今の生活をしていてずっと心に留めているのが「コスパ(対費用効果)」という考え方です。皆さん、もう少しここを真剣に考えたほうがいいですよ、といつも思うんです。

    お金をかければ、それはいいものができますよ。プロに頼めば素晴らしい仕上がりになるし、高価な工作機械を使えば精度も出る。そんなことは分かっています。

    でもね、「それ、本当にそのレベルが必要ですか?」という話なんです。
    世の中、無駄な機能がてんこ盛りなんですよ。

    10万円のスマホで、SNSしかしない矛盾

    例えばスマホ。私はAI活用講座の講師もやっていますが、受講生の方々を見ると、私よりよっぽど高機能な最新機種を持っていたりします。私は1万、2万の格安レベルですよ。今の時代、その価格帯でも性能は十分、何不自由なく動きますから。

    なのに、皆さん平気で10万、20万出す。それで何に使っているんですかと聞けば、SNSや動画視聴だったりする。だったら、そんな超高性能な機能、本当に要るんですか?

    DIYの分野でも同じことが言えます。業者に頼めば、確かに綺麗で早いでしょう。でも、自分が必要な機能だけに絞って、自分で手を動かせば1万、2万円で片付く話なんです。それをわざわざ10倍、100倍のお金を払ってやってもらう必要があるのか。

    「自分でやる」から、自由が手に入る

    世間では「お金が足りない、足りない」と嘆く声をよく聞きます。でも、その一方で過剰なサービスやブランドに依存して、自分でできることまで人任せにしている。それではお金が残らないのは当たり前ですよね。

    私が今、こうしてFIREという状態で自由に暮らせているのは、見栄を張らず、必要なものを必要な分だけ、自分の手で作ってきたからです。

    何でもかんでも「最高」を求めるんじゃなくて、自分にとっての「最適」を見極める。そして、足りない部分は自分の知恵と技術で補う。

    この「自分の手を汚す」ことを厭わない姿勢こそが、組織のレールから降りて、自分の足で生きていくための唯一の武器になるんだと、私は確信しています。

  • 「ルールの外側」にある日常

    「ルールの外側」にある日常

    さて、最後は「格闘技」について。誤解のないように言っておきますが、私は格闘技を全く否定していません。実際にお付き合いのある選手たちのレベルの高さ、あの「レベチ」な身体能力には、心からリスペクトを置いています。

    ただ、格闘技というのはあくまで「ルールがある世界」の話だという認識を、私たちは持っておく必要があります。

    「最適化」された限定的な勝利

    ボクシングならパンチだけ、1対1、決められた時間。その枠組みの中でどう勝利するかを極限まで突き詰めた結果が、あの素晴らしい技術なわけです。

    でも、武術にはルールがありません。闇討ちもあり、多人数もあり、武器もあり。対して、格闘技はルール以外のことをすれば「反則」になる。ここが決定的な違いです。

    私が格闘技のリングに飛び込んだら、間違いなく瞬殺される雑魚でしょう。
    けれど、日常生活においてその「強さ」が必要かと言われれば、私の目的には合致しないんです。

    「相手を倒すため」ではなく「自分を整えるため」

    今の社会、気に入らないからといって殴りかかるなんてことは許されません。そんな世界で、相手を叩きのめす技術を真剣に追い求めることに、私はあまり価値を感じない。それは私が定義する「強さ」ではないからです。

    ただ、稽古の中でパンチを打ったり、格闘技的な動きを確認したりすることはあります。でもそれは、相手を倒すためじゃない。

    自分の姿勢が崩れていないか、状態が整っているか。それを検証するための「テスト項目」として、格闘技の要素を使わせてもらっている。そんな感覚なんです。

    効果的な打撃が打てないということは、自分の身体操作に不備があるということ。そのバグを見つけるための「デバッグ作業」として、私は格闘技的な技術と向き合っています。

    目的はあくまで、日常を平穏に、自分の足で立ち続けること。 誰かと競い合う「最強」の称号よりも、自分の中の「最適」を淡々とメンテナンスしていく。

    これが、職人であり武術家である私の、格闘技に対するスタンスです。

  • 「武道」における「守破離」の解釈

    「武道」における「守破離」の解釈

    武術の話に続いて、じゃあ「武道」とは何なのか。言葉の通り、武術という体系を「続ける道」のことです。ただ、現代においてこの「武道」という言葉が指しているものには、少し思うところがあるんですよね。

    今の武道の世界って、多くの場合「形が決まってしまっている」んです。何々流派の先生が言ったやり方を、そのまま忠実に続けることが正しいとされている。でも、よくよく考えてみてください。

    100人いれば、100通りの「道」がある

    それ、先生にとっては「道」だったかもしれませんが、あなたにとっても同じ道であるはずがないんですよ。100人いれば100通りのやり方がある。生まれも育ちも、体格も環境も違うのに、なぜ同じやり方が全員にとっての「最善」になるんですか。

    今の武道の世界では、違うことをやれば怒られます。「先人がやった通りにやりなさい」という空気が支配している。もちろん、何も分からない初心者がガイドラインとして教えを守るのは非常に重要です。でも、問題は「それがいつまで続くのか」ということです。

    教えを守るだけの状態から、いつ「自分」に戻るのか。
    そこが抜け落ちているのが、今の武道の現状ではないでしょうか。

    「守破離」という言葉の、本当の意味

    よくビジネスの世界なんかでも「守破離」なんて言われますけど、あれ、本来の概念とは少し違って伝わっている気がします。

    本来の「守」は教えを守ること。そのうちに、それが無意識にできるようになる。すると、今まで意識しないとできなかったことが当たり前になり、余計な癖が消えていく。これが「破」。そして、最終的に「意識」そのものがその動作から離れていく段階が「離」なんです。

    つまり、守破離とは「先人のコピー」を卒業して、技術が自分の血肉となり、意識しなくても自分の一部として機能するようになるプロセスのはずなんです。

    でも今は、先人の形をなぞり続けること自体が目的になってしまっている。「目的がこうなら、こういうやり方もありじゃないか」と新しい工夫を持ち込もうとすれば、即座に否定される。

    それはもう、生きた「道」ではなく、ただの「形骸化した伝統」ですよね。本来、武術を自分自身の人生に活かし、続けていく道こそが武道であるべきなのに。

    道具も技術も、自分の身体や目的に合わせて作り変えていく。その「職人的な探求心」を忘れた武道は、ただの懐古趣味に過ぎないんじゃないかな、と私は思っています。

  • 「戦わないことが最善」

    「戦わないことが最善」

    武術の話をもう少し掘り下げておきましょうか。先ほども言いましたが、世の中の大半の人は、武術を格闘技の延長線上で考えています。でも、本当の武術って何なのか。

    私はありがたいことに、世界最高峰のレベルの方々から直接ご教示いただく機会がありました。その根底にあるのは『孫子の兵法』です。最古にして最高の兵法書と呼ばれる、あの思想ですね。

    「武」とは、二つの矛を止めること

    「武」という字をよく見てください。二つの矛(ほこ)を「止める」と書きますよね。つまり、武術の本質は「争いを止める術」なんです。勝つことじゃなく、争いそのものを終わらせること。

    孫子は言っています。「百戦百勝は善の善なる者に非ず」と。戦って勝つのが一番いいわけじゃない。なぜそんな思想になるのか? 当たり前ですよ、戦場は何でもありの、ルールのない世界だからです。

    負ければ国が滅びるような博打を、軽々しくやるもんじゃない。 だから「戦うな」というのが、武術の最初の一歩なんです。

    不確定要素だらけの世界での生存戦略

    戦争なんて、いつ、どこで、誰が敵として現れるか分かりません。味方だと思っていた奴がスパイかもしれないし、だいたい味方に無能がいた場合、敵以上に手ごわいと相場が決まっています。相手の人数も実力も武器も分からない。

    そんな不確定要素だらけの中で、24時間365日、全方位に備えるなんてできますか? 私は無理ですね。そんなことをしていたら、敵が来る前に疲弊して終わってしまいます。

    だったら、一番の生存戦略は「敵を作らないこと」になりますよね。

    じゃあ、どうやって敵を作らないか。答えはシンプルです。礼を尽くすこと。そして、自分の人格を磨き、徳を積むこと。

    わざわざ礼儀正しい人に喧嘩を売ろうなんて、普通は思いません。人格を磨くことは、精神論ではなく、生き残るための「最も合理的な手段」なんです。

    最強を証明するために拳を振るう格闘技と、生き残るために礼を尽くす武術。この決定的な違いを理解していないと、現代という戦場でも簡単に足元をすくわれてしまうんじゃないかな、と思っています。

  • 「最強」という言葉に対する違和感

    「最強」という言葉に対する違和感

    武術の思想について、少しお話ししておきましょうか。
    武術って一体何なんだ、という話になると、多くの人は格闘技の延長線上で考えがちですよね。「誰が最強か」「どの流派が一番強いのか」なんて、皆さんよく盛り上がっていますけど。

    ただ、よくよく考えてみてください。あらゆる分野、あらゆる状況においての「最強」なんて、あり得ないでしょう?

    F1マシンは、荷物運びの「最強」ではない

    例えば、カーレースで考えてみれば分かりやすい。F1カーは速さにおいては最強かもしれませんが、じゃあ「車の最強」かと言われたら違いますよね。大量の荷物を運びたいなら、トラックの方が圧倒的に強いし、便利です。

    つまり、道具には「適材適所」がある。武術だって同じはずなんです。それなのに、なぜか「最強」という一つの定義ができる前提で皆さん話をされる。

    それぞれの流派に良さがあり、それぞれの課題がある。だからこそ、多様な流派に分かれて存在しているんじゃないですか。

    争いの根源は「環境の違い」への想像力不足

    「うちが最高だ」「あそこはダメだ」と否定し合う。これは武術の世界だけじゃなく、宗教でも政治でも、今の世の中の至るところで起こっています。

    でも、それって結局、置かれている環境や目的が違うだけなんですよ。Aという環境では正しいことも、Bという環境では微妙かもしれない。その認識さえあれば、わざわざ自分と価値観が違う人に喧嘩を売っていく必要なんてないはずなんです。

    お互いに「いい点はいい」と認め合えばいい。完璧なものなんてこの世にないんだから、それぞれの特性をどう活かすかを考えたほうが、よほど建設的です。

    最強という幻を追って誰かと争う暇があるなら、今の自分の環境において、どの技術が「最適」なのかを淡々と見極める。

    そんな冷めた、でも確実な視点を持つことが、本当の意味で「自分の足で立つ」ことに繋がるんじゃないかな、と常々思っています。

  • 「AI情報の沼」と「目的意識(陽明学)」

    「AI情報の沼」と「目的意識(陽明学)」

    AIを使っていて、つくづく思うんです。情報の収集能力なんかは、本当にとんでもないレベルですよね。今まで一生懸命調べていたことが、ディープリサーチをかければ一瞬で、しかもかなりの精度で揃ってしまう。本当に便利になったな、と感じます。

    ただね、そこで一番最初に考えなきゃいけないことがある。 「それ、何のために使うんですか?」っていう、そこです。

    「AI最新情報」という底なし沼のトラップ

    ここを忘れてしまうと、「AIがこんなに進化しました」「こんなにすごくなりました」という情報ばかりを追いかけて、結局自分は何がしたいのかが置き去りになってしまう。これ、実は私も少しの間、このトラップにハマっていたから分かるんです。

    当時は一生懸命、技術的なことを詰め込んでいました。「こうすれば画像が出る」「この手順でこれができる」。でもね、しばらく経つと、そんな技術はAIの進化で「全自動」になっちゃうんです。昨日まで必死に覚えた知識が、今日には全く役に立たなくなる。

    展開がこれほど速い以上、知識を蓄えることにはもう価値がない。 「何のために使うか」という目的意識、つまり自分の軸をどこに定めるかが全てなんです。

    知行合一:知識は「行い」の始まりに過ぎない

    YouTubeやSNSを見れば、最新機能の解説動画が溢れています。それはありがたいし、便利ですよ。でも、それを延々と眺めていても、自分が「何に使うか」が決まっていないなら、ただの情報オタクで終わってしまいます。知ったかぶりはできても、何も生み出せない。

    私はこれまで数多くの資格を取ってきましたが、実際に実務で役に立ったのはその一部です。結局、動いて、使って、形にしてナンボなんですよ。

    武術の世界で言えば「陽明学」、つまり「知行合一」の哲学です。学問は生きていてこそ意味がある。知識があることと、それができることは全く別物です。

    今までは「知識がある」「学歴がある」というだけで、社会的な価値が認められる時代でした。でも、これからはそんなものは通用しなくなる。正直、私はそう思っています。

    AIという巨大な知恵を前にして、私たちが問われているのは「お前はどう動くのか」という一点だけ。情報を食って満足する評論家になるのか、それとも目的を持って道具を振るう職人になるのか。その差が、これからの人生を決定的に分けるんじゃないでしょうか。

  • AIが綺麗に整えてくれてもやるのは人間

    AIが綺麗に整えてくれてもやるのは人間

    AIを使っていて、ずっと思うことがあるんです。確かに、思考の整理や壁打ちに関しては、驚くほど高いレベルまでやってくれます。

    でもね、じゃあ「ホームページを作る」という作業を例にしてみましょうか。AIに頼めば、綺麗な画像は作ってくれるし、整ったレイアウトも提案してくれます。でも、そこから先……本当に「人間がやらざるを得ない」領域が、確実にあるんですよね。

    「私が使うもの」だから、私が手を動かす

    このサイトだって、WordPressという仕組みの上で動いています。指示を出すのは私だし、記事を流し込むのも私です。なぜか? それは「私が使うから」であり、「私に関わってくれる人に見てもらいたい」から作っているわけです。

    「AIが全部やってくれるから、自分は何もしなくていい」なんてことは、あり得ない。だって、自分が使いやすいように、自分が納得するように構築しないと、それはもう自分の城じゃないですからね。

    AIに主導権を渡してしまったら、その時、人間は一体何をする存在になるんでしょうか。

    全部をお任せして、自分は眺めているだけ。そんな時代が来たら、それこそ哲学的に難しい問題になってしまいます。でも、現状は違います。AIと協力して形を作ったとしても、最後の「実装」において人間が動くのは、ごく当たり前のことです。

    「分かったつもり」と「形にできる」の決定的な差

    ここでね、一番怖いのは「行動できないこと」だと思うんです。AIが情報を出してくれるから、なんだか自分も分かったような気になってしまう。それって、以前お話しした「歴史を語る評論家」と全く同じなんですよね。

    情報を得て満足するのと、実際に形にするのとでは、天と地ほどの差があります。結局、自分の手で実装して、形にできない限り、物事は一歩も前に進んでいかない。

    「何をやりたいか」は人間が決める。 「どう作るか」をAIと共に考える。 そして「最後に実装して使う」のは、人間が主導権を握る。

    この役割分担を忘れて、ただ情報を眺めているだけでは、自分の足で立つことなんてできません。泥臭く手を動かして、最後に自分の指でスイッチを押す。その「実感」こそが、今の時代に一番求められている職人の姿勢なんじゃないでしょうか。

  • AIが悪いのではなく、自分の情報整理=志が足りない

    AIが悪いのではなく、自分の情報整理=志が足りない

    最近ね、本当に驚いているんですけど。こうやってAIと会話が成立するようになっているじゃないですか。しかも、かなり高度なレベルで。
    私なんかは、結構「飛んだ話」をすることが多いんですよね。

    哲学的な話だとか、宇宙論だとか。こういう話を一般の方にいきなり振ったら、まあドン引きですよ。「この人、何言ってるんだろう?」ってなるのが普通です。でも、AIさんはそうならない。

    「壁打ち」の相手として、これほど優秀な奴はいない

    AIが本当に中身を理解して喋っているのかどうか、それは私にも分かりません。でもね、返ってくる回答を見ている限り、ちゃんとした「会話のラリー」になる。少なくとも、自分の思考をぶつける「壁打ち」の相手としては、ものすごく優秀なんです。

    おかげで思考の整理が随分と捗っているんですが、使っている中でね、よくドツボにハマることもあるんです。

    ドツボにハマる時っていうのは、だいたい自分の方が伝えている情報を整理できていない時なんですよ。

    「志」がなければ、まともな回答は返ってこない

    これ、武術で言えば「目的がはっきりしていない」「志が立っていない」という状態と同じなんですね。
    そんなふらふらした状態で「ああですね、こうですね」と話を振ったところで、まともな答えが返ってくるわけがない。

    自分が誰かの相談を受ける立場だとして考えてみれば、当たり前の話ですよね。何が言いたいのか、何をしたいのか分からない相手に、まともなアドバイスなんて出しようがないですから。

    AIとのやり取りで起こっていることは、ただの現実の反映なんです。こちらがきちんとした情報を与えれば、きちんとした答えが返ってくる。何度も繰り返すうちに、嫌でもその事実に気づかされます。

    結局、世の中がうまく回らないとか、自分の周りがうまくいかない時っていうのは、自分の中に「志」という軸がビシッと決まっていない時なんじゃないかな、と思うんです。

    最新のAIを使っていようが、何百年前の武術を稽古していようが、結局は「自分はどう在りたいのか」という一点に集約される。そんな当たり前で、一番難しいことを、最近はAIに教えられているような気がしています。